令和6年度作文集

令和6年度の社会を明るくする作文集をご紹介致します
地域で暮らす子ども達が社会の課題を考えました。作文を通じて見えてくる子ども達の本音、力強いメッセージをどうぞご覧ください。
千葉県推進委員会委員長賞(県知事賞)
大椎中 二年 渡辺結衣 「向き合い、知ることの大切さ」
「犯罪、非行」 この言葉は今、私にとってとても遠いところにある。例えば世界では犯罪、非行が行われないように各国で法律やルールを定めて、それを守れなかった人に罰則が下される。もう二度と同じ過ちを犯さないように。 だがひとりひとりはどうだろうか。最近のニュースを見ていると私はひとりひとりの意識が疎かだと思う場面が多々ある。かく言う私も日頃からニュースこそ見るが、犯罪について知ることは怖くて調べようとすることはなかった。 そんな時、今年の夏休みに友人に誘われ、千葉地方裁判所に傍聴人として人生で初めて裁判所に行った。私たちが傍聴した裁判は、建造物侵入幇助、強盗致傷幇助、窃盗を犯した裁判だった。私は初めて訪れる裁判所内に胸を高鳴らせながら足早に法廷に向かった。音を立てないようにゆっくりと扉を押すと、法廷内はえも言われぬ緊張感と静寂に包まれていた。 しばらくすると裁判官や被告人、検察官が入ってきた。 「これより千葉地方裁判所における建造物侵入幇助、強盗致傷幇助、窃盗事件の審理を開始します。」 裁判官の野太い声が静寂を破った。それから手錠を外された被告人が証言台へとゆっくり歩み寄った。身長の高い男性、首元まで伸びる外側にはねた髪、足取りは重く、目線は下を向いていた。こんなに何個も罪を重ねている人はきっと悪辣に違いないと思っていたが、証言台に立ち真っ直ぐ前を向きながら質問に受け答えする様子は私のイメージする悪辣とはとても遠のいていた。その後も被告人は事件について淡々と真摯に答えていた。ひたむきに答えるその姿勢に少し前まで悪辣だと思っていた人の話に前のめりになっていた。そんな被告人に最後、こんな質問がされた。 「あなたはこれから二度と罪を犯しませんか?」 緊張や同情、怒り、様々な気持ちが渦巻く中、被告人の言葉を一言も聞きもらすまいと私は固唾を呑んで見守った。 「はい。」 意思のこもった芯のある強い声だった。たった一言の言葉なのにこの人からは自分の罪を見つめ直そうという強い意思が感じられた。私はこの裁判で犯罪者への考え方が変わった。罪を犯してしまったという事実は今もこれからも変わらないが、自分の罪を認め、受け止めることで自分も、巻き込んでしまった人も少ないながらも報われる。とても小さいものかもしれないが、積み重ねることで救われる人は必ずいると思った。 「犯罪、非行」 この言葉は以前、私にとってとても遠いところにあった。だが、今は違う。なぜなら傍聴を体験して気が付いたことがあるからだ。それは私が今まで「犯罪はやってはいけないもの、犯罪は知らなくていいもの」という固定概念に囚われ、向き合おうとしなかったことだ。もちろん、「犯罪はやってはいけない」という考え方は変わらないが、知ることでも犯罪へのひとりひとりの意識は変わる。以前の私がそうであったように怖くて手を出せない人がまだ山ほどいると思う。それでもまずは知ってみる、向き合ってみることから始めてみてはどうだろうか。ひとりひとりの意識が変われば自ずと犯罪は減る。そうしたら誰にでも新たな道が開けると私は思う。
千葉県小学校長会長賞(奨励賞)
土気南小 六年 宇井明 「できることから一つずつ」
みなさんは「社会を明るくしよう」と考えたときどんなことを考えるでしょうか。戦争のことや政治のことなど、大きな問題について考える人が多いのではないでしょうか。しかし、自分で戦争を無くしたり、政治で社会を変えたりすることは、今の自分にはまだ難しいです。だからぼくは、大きな問題ではなく、身の回りにある小さなことから一つずつ、変えていくことが大切だと思います。 ぼくは、「自分が明るくなること」がいちばん大切だと思います。自分が明るければ、自然に周りが明るくなり、明るい人が寄ってくるからです。逆に、自分が暗い気持ちだと、それは周りの人にも影響します。学校で農山村留学へ行き、みんなでキャンドルサービスをした時のことをよく覚えています。最初はたった一つの火の神の炎は、火の子だったぼくの元へ、そしてその火はクラスの友達にわたっていきました。ろうそくからろうそくに火が移り、増えていくにつれて、体育館もどんどん明るくなっていきました。誰かの明るさが周りの人に伝わり広がっていく様子とよく似ていると思いました。ついに全員のろうそくに火がわたった時には、みんなの心がつながったように感じました。 ぼくはバスケットボールチームに所属しています。強い相手との試合、点差がどんどん開いていき、とうとうぼくたちは負けるのではないかと落ち込んでいたことがありました。その時、聞こえてきたのが、同級生のチームメイトの声でした。「もっともり上げよう。雰囲気で勝てなきゃ、バスケじゃ勝てないよ。」 その明るい一言で、チームの空気が変わりました。点差のことを忘れ、夢中でボールを追いかけ、仲間にパスをつなぎ、必死に走りました。開いていた点差は少しずつ縮まり、ついにその試合では、逆転勝利を収めることができました。その経験を、ぼくは忘れることができません。その時から、ぼくは友達を見習い、自分が明るくすることを意識するようになりました。 このように、自分が明るい雰囲気でいることで、自然と周りも明るくなっていきます。この明るさは、学級、学年、学校、そして地域へと広げていくことができると思います。「できることから一つずつ。」たった一つのことが、周りを大きく変えるきっかけになる可能性があります。今は難しいかもしれない「戦争を無くすこと」「社会を変えること」も、みんなの小さなきっかけが集まれば実現できるかもしれません。心の火を、人から人へと移し、増やしていくことで、次第に社会も明るくなっていくと思います。その最初の火を自分の手で灯すことができるように、毎日自分にできること一つ一つを大切にしながら過ごしていきたいと思います。
緑地区優秀作品
いじめの対処・対策
誉田中学校 二年 會澤 昇悟
みなさんは、いじめを見たことがあるだろうか。見たことがある人は少ないかもしれない。また、見たことがあってもそれを無視したり加害者になってしまったりしている人はそれを隠そうとするだろう。自分がやってしまうことを「やばいかも」などと思わないのだろうか。どういう活動をすればいじめは改善していくのだろうか。 まず日本よりいじめが少ない他の国との違いを比べてみよう。今回は米国と比べてみることにした。そうするとまず、いじめが発覚したときの対処法だ。まず、日本の場合はいじめられた側の心のケアを優先するのだ。これは日本では、ごく普通の考え方だと思うだろう。実際に文部科学省のホームページにも似たようなことが記されており、そこには「いじめられている子供の立場に立った親身の指導を行うこと」がいじめ問題に関する基本的認識と記載されていたのだ。ここからもわかる通り、政府の方針としていじめられている子供の心のケアを優先することが分かるだろう。それに対し、米国では、いじめが起こった際に加害者側のケアを優先的に行うのだ。これを勧める人は多くフランスやその他の国でも取り入れられているのだ。日本でもこの考え方を取り入れるべきという声は多く挙がっているようだ。実際に行っているケアの内容は共感トレーニングや怒りのコントロールのカウンセリングなどがあるそうだ。被害者がまた立ち直ることを支援するのももちろん大切だが、それ以前に加害者がいじめという行為に至ってしまった理由を探るのもまた大切なのである。 また、他にも米国の学校ではポジティブな言葉をペイントやポスターにして学校内の目につくところに書いてあるのだ。例えば、「優しくすることはかっこいい」などである。この方法は科学的に証明されていて、「ポジティブ行動支援」というのだそう。このように日本と他の国を比べてみるといろいろな対策があるのだ。 現代の日本では、ニュースになるほどの、いじめによる自殺などがあとを絶たない。日本のいじめ対処はいじめが起こったという事実確認が先で加害者や被害者への対応が後手に回ってしまっているようだ。いち早く見つけて対処するにはどうしたらよいだろうか。 いじめている側はもちろんいじめがばれたくないだろう。また、いじめられている被害者もまた自分から助けを乞うことが少ないだろう。なぜだろうか、きっと、周りの中に助けてくれる人がいないと信じ込み、中々言いだすことができず、自分の弱みに感じているのだろう。私も友達とゲームをしているときに友達が作ったものをちょっと壊してしまったときに、ばれないようにしながら、あとでちゃんと修復したことがある。この時はみんな別のことをしていたから大丈夫だったが、ばれそうになったら焦るだろう。みなさんも自分の弱さを感じることがあるだろう。そういった自分の弱い部分の話をされたときの感情は見た目に出てくるのでそれを見逃さないようにする必要があるだろう。 みなさんどうだろうか。みなさんは「いじめは悪いこと」「許してはいけない」などとマイナスな言い方をしているだろう。だが、ポジティブな言葉の方が効果があるようだ。だから私は、これから「ポジティブ行動支援」的な発言を心がけたいと思う。これを聞いたみなさんはどうだろうか。みなさんの中にいじめの加害者がいる、またはその人を見たことがある人がいるかもしれない。だが、それを責めるのではなく、どうしたらいじめが改善されるかを論理的に、効率的に考えられることを願っている。最後に、「優しい心は美しい。」
周りのイメージで決まる世の中
誉田中学校 二年 飛田 七海
一九九二年、福岡県飯塚市でおきた小学一年生の女児二人が殺害された「飯塚事件」を知っている人は沢山いるでしょう。この事件は人が人を裁くのがどれだけ難しいことか、酷く痛感した事件の一つです。この事件では一つの命が冤罪により亡くなってしまいました。 このように冤罪で捕まった人は、自分たちが思っているより少なくはありません。また冤罪で取り調べを受け、無事、無罪であっても周りの人たちからのイメージは犯罪者になってしまうことがあります。なので私はこのように冤罪で捕まってしまった人、冤罪で犯罪者のイメージがつけられてしまった人たちのサポートが必要だと考えました。 まず私は、日本で冤罪で捕まった人の体験談を調べてみました。 ある一人の女性が無実の罪で二十年以上も獄中に囚われ、社会から隔絶され、そして無罪になってやっと普通の生活に戻れると思ったのに息子は大人になり両親は八十歳を過ぎて介護が必要になっていたし、無罪判決を得ても無実を信じない世間の目。捕まっていた間は自分の子供の成長は見られないし、二十年余りの長い間、自由を奪われ、極度の人間不信と潔癖症になってしまったそう。この女性は逮捕以来犯罪者として扱われ、インターネット上でも無実を疑う誹謗中傷があふれている。無罪が確定しても世間の人が全員無実と思ってくれるわけではなかった。と書いてありました。ここにはやっぱり周りの人はこの女性の犯罪者のイメージが強く、誹謗中傷を受けたとありました。また、周りの人たちは自分の無罪を喜んでくれて、誤った判決をした警察の人からは全面的なサポートを受けて立ち直ることができたなどのことは一切書いてありませんでした。 次に冤罪で捕まった場合の国からのサポートについて調べました。冤罪で捕まった場合、日本では裁判で無罪判決を受けた方へ、精神的・肉体的に受けた苦痛の補償として、拘束された日数一日あたりにつき十円~一万二千五百円を国が支払うということが「刑事補償法」で定められていて、冤罪で捕まった補償としてはこれしかないそうです。私はこれを見て、信じられませんでした。周りの人たちには自分が犯罪者のイメージをつけられ、インターネット上でも誹謗中傷を受けて、人間不信になる人もいて、もう普通の生活はできないのに最高で一日あたり一万二千五百円の補償だけしかもらえません。そんなの絶対あっちゃいけないと思いました。そこでもっと調べて見ると、国からの支援はありませんでしたが、「イノセンス・プロジェクト・ジャパン」という刑事事件の「冤罪」の被害者を支援し、救済することと冤罪事件の再検証を通じて公正・公平な司法を実現することを目指している団体を見つけました。この団体は、学生ボランティアを集めて冤罪に関する学内勉強会を行ったり、ホームページには冤罪で捕まった人が保釈されたことを心から喜んでいる記事や、保釈された本人の喜びと感謝のメッセージが沢山書いてあったり、とても温かい団体でした。 今回このように冤罪で罪に巻き込まれてしまった人の今後のサポートなどについて調べてみて、まず改めて人が人を裁くことの難しさを痛感しました。また、冤罪で罪に巻き込まれてしまった人の生活はもう普通に戻れないということもわかりました。でも、今まで通りの生活が送れるように心から願っている温かい団体が身近にいるということも知りました。私も冤罪はたまたま身近で聞いたことないからと深く考えないのではなく、冤罪で人生を壊された人の辛さを忘れず、そういう人にも私自身が支援したり味方になってあげたりしたいと思いました。少しでも冤罪が減るよう、心から私自身も願っています。
犯罪や非行のない社会へ
大椎中学校 二年 櫻井 葵
悪人こそ救われる/悪人正機」 これは、阿弥陀如来の救いを信じる心を強調した浄土真宗の開祖、親鸞の教えである。 「歎異抄」と呼ばれる書物では、「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや。」という言葉で示されることで有名だ。 私がここでこの教えを提示したのは、これから犯罪や非行について考える上で、何か手がかりになる要素があると考えたからだ。 もしも、「あなたは悪人ですか?」と聞かれたとき、あなたは何と答えるだろうか。ほとんどの人は、「私は悪人ではありません。」と答えるだろう。では、「あなたは自分の考えに捉われることはありますか?」と聞かれたときはどうだろうか。胸を張って「いいえ」と答えることはできないはずだ。 実は、親鸞の言う悪人とは、悪いことをする者、良いことをする者という基準ではなく自らの力で煩脳を捨てきることができない人、すなわち自らの力で迷いを離れることができない人を指すのだ。要するに「悪人正機」とは、「自らの力で迷いを離れることができない人こそが、阿弥陀様の救いのめあてである」ということを示した教えなのだ。 私は、以上のようなこの教えの根本を踏まえて、犯罪や非行について考えた。そこでふと頭に浮かんだことは、犯罪や非行の加害者も、心を煩わされ、身を悩ます程の辛い経験や思いを抱えていたのではないだろうか、ということだ。前述の通り、「あなたは自分の考えに捉われることはありますか?」という問い掛けに対しては、ほとんどの人は「いいえ」と答えられない。誰もが一度は自分の考えに捉われる経験をしているのならば、犯罪や非行の加害者も、同じ人間としてそうした経験を経てきたのではないだろうか、と考えたからだ。 実際、インターネット上では、罪を犯したり非行に走ったりする人の背景には、貧困、家族問題、地域問題、学校不適応など多岐にわたる要因があると指摘されていた。 罪を犯した彼らの多くが、こうした様々な要因によって社会の中で居場所を無くし、疎外感を感じている。そうした状況が、彼らの心の奥深くに苦しみや悲しみを与え、彼らを追い詰めたのだとしたら、親鸞の教えのように「自らの力で迷いを離れることができない人」を救うことが必要だ。 もちろん、犯罪は決して許されるものではない。しかし、罪を犯すに至るまでの彼らの壮絶な状況を思うと、彼らだけの責任とは言い切れない。大切なことは、そういった表面上分かりにくい部分を理解していくことなのではないだろうか。 これらのことから、犯罪や非行のない地域社会を形成するためには、誰もが人との繋がりを広げて、周囲の人の些細な変化にも気づける関係、相談に乗れる関係を築いていくことが大切だ。きっと、細やかな心配りや悩みを打ち明けられる存在が彼らの心を救っていくはずだ。
一人一人の心を視る
大椎中学校 二年 渥美 恵麻
学校に行く日は、必ずテレビを見る。そして耳にするのが、悲しく痛ましい事件。犯人や事件について密着したテレビ番組はよく見る方だが、それを見ているときはいつも恐怖が襲ってくる。「自分が被害者になったら」と考えると、より恐くなる。しかし、それは私が「死にたくないから」つまり「今の幸せを失うのが怖いから」だと考えている。実際に会ってでも、うその表情を使っていたら、結局相手の「うその表情の仮面」の下、本当は悲しい、苦しい、孤独な感情を感じ取ることはできなくなってしまう。そう思うと、罪を犯した人は本当に悪い人なのだろうか。もしかしたら、辛く苦しい感情を、「一人だから」だれにも話せず仮面の下に隠してきたのかもしれない。そして、犯罪を犯すことはだれかを「傷つけること」だが、その人は今まで「傷ついていた」のだと思う。 私も、実際に経験がある。流されがちで、嫌なことを「嫌」と言えなかったときや、自分の意見を言えなかったときがあった。その瞬間は、「嫌われてしまうかもしれない」、「他の人が嫌なら自分が背負われなければいけない」、「わがままだと思われそう」というような感情が浮かび、うそで自分の意見を隠してしまう。しかし、そのような感情に対して意見が言えなかった後は、言えなかったことに対する心残り、感情に気づいてもらえなかったことへの悲しみや孤独感と場や状況、人によって異なるが、このようなものが挙げられる。皆さんも、人生で一度は体験している、または体験すると思うが、私と同じような感情が浮かぶだろう。犯罪をしてしまった人も同じような感情を抱いていて、「強がっていた」、「孤独感にみまわれてしまった」などがあった。 つまり、私たちはもちろん、その感情を感じた環境は異なるが、同じ辛さを知った共感者として寄り添うことができると考えた。そして、寄り添うにはどうするかを挙げると、「自分が相手の感情に気づく」このことが大切。 先程、「実際に会っても、うそをついていたら相手の感情に気づけない」と説いたが、それはまだ相手に寄り添えていない場合である。そして相手に寄り添うには、「コミュニケーションを増やす」、「大丈夫だよねと思いこまない」、「一人にしない」の三つが相手の感情を理解することだと考えている。 まず必要なのがコミュニケーション。会って話さなければより感情が見えにくくなってしまう。よく「大丈夫」と言うが、それは本当なのだろうか。相手の声のトーンや声量、表情を見て判断し、一人でいると孤独を抱え込んでしまうため、周りを見て一人の人に「寄り添う」ことが大切だと考えた。 このように、一人一人が寄り添うことでうその表情を使わず、「本当の笑顔」そして「仮面の下の感情」を打ち明け、少しでも犯罪を行ってしまった人の心が救われるのだと思った。
ぼくにできること
誉田小学校 六年 永澤 昌樹
社会を明るくする運動ってなんだろうと考えてみても何も思いつきませんでした。お母さんに、 「ぼくにできる社会を明るくする運動って何かあるのか な。」 と聞きました。するとお母さんに 「社会が明るくなるにはどうしたらいいと思う? 明るい なって思うのはどんな時か考えてみたら。」 と言われました。 ぼくは、お母さんに言われて考えてみました。だれかに優しくされたり、優しくしてあげたりした時に社会が明るくなるんじゃないかなと思いました。 前に学校帰りに財布を拾ったことがありました。それを交番にとどけました。おまわりさんにほめられてとてもうれしかったのを今でも覚えています。いいことをすると気分が良いなと思いました。その後、財布の持ち主からも「ありがとう」と言われてとてもうれしかったです。 この事からぼくは他の人に優しくしようと思ったし、人が喜ぶことをしようと思いました。ぼくが財布を拾ったということは小さな事でしかないけど、いい事をすると気分が良いということをみんなが知って、みんながやれば社会が明るくなると思いました。 もう一つはあいさつをすることです。学校であいさつ運動をしていて大きな声であいさつをすると大きな声であいさつをしてくれる子と小さな声であいさつをする子がいます。ぼくは大きな声で返してくれる方がうれしいなと思っていました。ぼくがあいさつを返す時は目線を合わせて大きな声でするようにしています。その方があいさつをしてくれた人もうれしいんじゃないのかなと思ったからです。学校の中だけじゃなく、近所の人にも恥ずかしがらずに大きな声であいさつをしています。 テレビでどろぼうはあいさつをされると、ドキッとして犯罪ができなくなると言うのを見たことがあります。ただあいさつをするだけでも犯罪が起きなくなるのはとてもいい事だなと思いました。ぼくができることは小さなことばかりで、すぐに社会が明るくなるということにつながるわけじゃないけど、みんながぼくと同じ気持ちになったら優しい人が増えて犯罪者も減ると思います。そうしたら社会が明るくなるんじゃないかなと思いました。 ぼくは、みんなが困っていたら助けたり、ぼくが困った時に助けてもらったり、助け合いをする事が大切だと思います。自分の気持ちを押しつけるのではなく相手が何をしてほしいかを考えて、助けてあげられるようになりたいです。
掃除当番から考える社会づくり
小谷小学校 六年 裴 可洋
学校での掃除当番は、ただ教室や廊下を掃除する普通の活動のように感じますが、私は掃除当番から、社会に生きていく中で大切なことを学びました。掃除当番は、教室をきれいにするだけでなく、私たち一人ひとりが社会を明るくし、犯罪や非行のない地域社会をつくるために大切なことを学ぶ機会でもあると思います。 始めに、私が掃除当番を通して学んだ最も大切なことは、「責任感」です。掃除当番を忘れずにやり終えることで、自分の行動が他の人に迷惑をかけることがあるかどうかを意識するようになり、責任感が育ちました。責任感は、学校内だけでなく、学校の外でも大切であり、ルールを守ることや他人への配慮にもつながります。責任感を育てることで、自分の行動が社会に生きている人たちに迷惑をかけることがあるかどうかを意識するようになり、非行を防ぐ力となるのです。 次に、掃除当番を通して「協力の大切さ」を学びました。掃除はたしかに、一人で行うことができますが、クラスメートと協力して、掃除を進めることでより効率的に進めることができます。以前、学校の掃除の時間に、あるクラスメートが私と同じ掃除場所で、自分の担当が早く終わったので、掃除をまだ終わらせていない私を手伝ってくれました。だから、掃除の時間が終わるまでに早く終わらせることができ、効率的に掃除を進めることができました。そして、お互い喜びあった時がありました。この経験を通して、協力することで仲間との絆が深まり、クラスの雰囲気を良くすることができることを学びました。また、協力し合うことで、お互いを支え合うようになり、いじめや非行が起こりにくくなることを学びました。 さらに、掃除当番を通して、「思いやりと他人への配慮」の大切さを学びました。以前、クラスメートのだれかが、体調を崩してしまい、掃除の時間の前に早退してしまいました。その時、私はその子の分まで掃除して、その子を気遣いました。このようにして自分の力で、他人を助けることでお互いの信頼関係を築きました。また、思いやりのある行動をすることで、相手に対する優しさが育ち、それが犯罪や非行の防止につながると思いました。思いやりのある行動や他人への配慮は、学校内だけでなく、学校の外でもできます。 例えば、お年寄りの肩を支える。電車の座席に座るときは優先席だけではなく、普通の席も体に障害のある人や高齢者、妊娠中の人などにゆずってあげる。車イスに乗っている人のために、車イスを押してあげるなども思いやりのある行動でもありますし、他人への配慮でもあります。これらのような、ちょっとした小さなことを一人ひとりが積み重ね、温かい気持ちになる行動が社会を明るくして、犯罪や非行を防ぐのではないかと思いました。 掃除当番で学んだこれらのことは、犯罪や非行を防ぎ、地域社会を明るくしてくれるのではないかと思いました。責任感や協力、思いやりは、私たちが意識しなければならないことです。一人ひとりがこれらを行うことで、地域社会を明るくするのだと思いました。私も社会を明るくしていくためにこれからは、掃除当番を通して学んだことを、日常生活に活かしていきたいです。そして、掃除当番が社会全体を明るくし、犯罪や非行のない地域社会をつくるためになることを私は心に刻んでいきたいと思います。掃除当番で学んだことを忘れずに、明るく安心して過ごせる地域社会を目指して、今の自分にできることを行っていこうと思います。
未来への一歩
小谷小学校 六年 古滝 光琉
最近、千葉市を対象として「主要な公共施設と学校に爆弾を仕掛けた」という文章の犯行予告があった。また、その犯行予告は千葉県以外の十都市ほどが対象となった。実際には爆発物は見当たらなかったが、そのような文章を送ることは立派な犯罪である。そこで、私はなぜそのようなことが起きてしまうのか考え、また調べてみたので説明しよう。 まず、犯罪行動のメカニズムについて説明する。人が罪を犯す要因は二つある。 そのうち一つは「個人的要因」である。個人的要因とは、価値観の偏りや犯罪に親和的な考え方をすることや、周囲の迷惑よりも自分の利益を優先したり、こんなことは誰でもやっていると自分の行動を都合よく正当化してしまったりすることで犯罪に陥りやすくなること。 二つ目は「環境的要因」である。環境的要因とは、周りに犯罪の道に誘う仲間がいたり、家庭・学校・職場生活がうまくいっていないなど、個人を取り巻く環境の問題や、家庭などの大切な居場所で、身近な人との心の絆が築かれず、打ち込めるものをなくしたりすると犯罪に陥りやすくなってしまうなどの原因が挙げられる。 ここまで犯罪が起きるメカニズムについて話してきたが、 犯罪を犯してしまった人が、社会に復帰して負の連鎖を断ち切り、罪を犯してしまった人が更生していくことが大切だと私は考える。 具体的には、犯罪が繰り返されないようにするために、犯罪をした本人が過ちを改め、自分の問題を解消し、その立ち直りに向けて努力することも必要だが、社会においても、立ち直ろうとする者を受け入れ、その立ち直りに手を差し伸べていく必要もある。それにより、地域で就労の機会を得ることができれば、自分を信じることができるようになる。そして、住居があれば、明日を信じていくことができる。そうしたことにより、二度と犯罪に手を染めない道につながっていける。 だから、私たちが犯罪をした者を社会から排除し、孤立させてしまうのではなくて、責任ある社会の一員として受け入れていける、そんな社会を作ることが、安心・安全に暮らせる社会を作ることに直結すると考える。それに、高齢化の進む日本では社会の支え手が必要である。そこで、犯罪を犯してしまった人が更生し、社会に復帰していくことで社会の支え手が増えていく。そんな風に正しい道、また生きがいのある道へと戻れる。そんな明るい社会が作られていかなければと私は考えている。 このように、日本では個人的要因や環境的要因によって、犯罪に手を染めてしまう人もいる。そのような人が一人もいないように私たちは、犯罪をした人を社会から排除せず、責任ある社会の一員として互いに認め合い、この日本に生きる全ての人たちが、明るく、安心安全で幸せに生きてほしいと私は願っている。
社会を明るくする初めの一歩
小谷小学校 六年 木村 勇貴
今日もまた、事件や事故のことをニュースが伝えています。それを耳にする度、ぼくはなぜこんなことをする人がいるのだろうと思うのです。その一つ一つの事件にぼくは関係ないので何も思わないかもしれません。でも、ぼくの近くでそんなことが起きたら、もしぼくの友達や家族が巻き込まれてしまったら、きっと胸がはりさけるぐらい悲しくなり、色々な感情がこみ上げてくるでしょう。 「なんでこんなことをする人がいるんだろう。」 ぼくは無意識にそう言っていたようです。すると母は言いました。 「でもさ、今ニュースに出ている人も、まあ何かあったんだ ろうね。」 ぼくは確かにそうだなと思いました。すると母は続けて 「だってさ、生まれてきた赤ちゃんの頃から悪いことをして やろうなんて思う人いないでしょう。きっと何か理由があ ったんじゃない。」 それを聞いてぼくは考えました。「その通りだな。生まれた時から悪いことをしようと思う人なんていない。今までは犯罪を犯した人に対して悪いやつだとしか思わなかったけれどこれからは見方も変えなければいけないな。」と思いました。きっと、自分のやったことを後悔してもしきれなくて、sそれを償ってもう一度社会の一員になりたい人もいると思います。被害者の気持ちも大事ですが、犯罪を犯した人のその後を受け入れてくれないような社会も考えものです。ぼくはそんな社会は嫌です。 では、ぼくたちにできることはないでしょうか。例えばこの二つを考えました。一つ目は、「礼儀」です。二つ目は「相手の気持ちを考えその人に悩みごとがあったら寄り添ってあげること」です。この二つを意識して生活することで、皆が常に優しい気持ちになるのではないかと考えます。 例えば「礼儀」ではわざとではなくても、失礼なことをしてしまうときには 「すみません。」 と一言かけるだけで相手は嫌な気持ちにならないでしょう。他にもなにかを落としてしまって、それをだれかが拾ってくれた時 「ありがとうございます。」 と一言かけるだけで相手はうれしくなるでしょう。皆が気持ちよく過ごせる社会はどんなに良いことでしょう。そして学校も社会と同じです。例えばとなりの席の人が消しゴムを落としてしまって拾ってあげたとき 「ありがとう。」 と言われただけでほんの少し良い気持ちになります。でも何も言われなかったら少し残念な気持ちになります。このようにささいなことでも「礼儀」によって人の気持ちを変えることができるのです。不安や悲しみなどの感情が少しずつ減っていけば心が穏やかになり明るい毎日が送れると思います。 二つ目に「相手の気持ちを考え、その人が悩んでいたら寄り添ってあげる。」ことも大切です。陰口をたたくことは絶対にあってはなりません。陰口をたたく人は相手に分からないと思っているでしょう。でも本当は分かっているかもしれません。人は嫌なことがあっても笑顔を作れます。そして人は心の中が見えません。相手が悪口を言われているのが分かっているかもしれないことを、言った本人は気づかず、すぐ忘れてしまいます。でも、言われた人は人生ずっと永遠の心の傷かもしれません。体の傷はすぐに治りますが、心の傷はずっと治りません。言葉一つで人の心を傷つけたりうれしい気持ちにしたりすることができるのです。また、近くに悩んでいる人がいたら、悩んでいる事、何をしてほしいのかを聞き、実行に移します。これは、子供だから大人だからだなんて関係ありません。悩んでいる人を見たら、すぐ話を聞いて 寄り添います。そうすれば、悲しいことや辛いことが一つ減り、その人がその事で悩み、犯罪を犯すことがなくなるかもしれません。人の人生をぼくたちは、変えて救うことができるのです。 つまり「礼儀」を正しくし、「相手の気持ちを考え、悩んでいたら寄り添ってあげる。」ことが大切です。そうすればたくさんの人の不安、悲しみ、辛さなどの負の感情を少しずつ、打ち消してあげることができます。それにより犯罪を犯す人が減り、社会を明るくすることができると考えています。生まれたときから犯罪者になろうなんて思う人はいません。だから、犯罪を犯してしまうには何か悲しい理由や辛い理由があるとぼくは考えました。 そんな人たちに寄り添って、すぐ近くにいる頼れる仲間として、友達として、いてあげるのが、社会を明るくするためにできる初めの一歩なのではないでしょうか。
「ずっと友達だからね」
大椎小学校 六年 茶木 惺矢
ぼくは、小学校に入学するまで発達障害者支援施設に通っていた。この施設は、言葉が上手に話せなかったり、手足が上手く動かせなかったり、見た目は普通だけど思ったことを言葉にするのが苦手だったりするような障害がある子供が通う所だ。訓練をして少しでも苦手なことをできるようにするために、学習したり運動したりしながら他の子とのコミュニケーションを取るような遊びをしたりする。その施設で、ぼくはとても仲良くなった友達がいる。親同士も仲が良く、帰りがけに食事に行ったり、遊んだりする程だった。友達の障害は、見た目では全くわからないものだった。人懐っこくて、少しのんびり屋さんで、自分のことばかり話すような所はあったが、笑顔が可愛くて、とても手先が器用で切り紙が得意で元気な子という印象だった。 最近になってその子がいじめられていることを知った。夏祭りの日、母がその子の家族にばったり再会した。小学校に入学してからは、ほとんど会ってはいなかった。話を聞くと、二年生の頃からいじめが始まったらしい。その頃は、クラスのリーダー的存在の子がドッジボールの的にしようと言い出し、他の子たちも一緒になっていじめがスタートした。いじめはだんだんエスカレートしていって五年生になる頃には、上履きや教科書等の持ち物をかくされた。ひどい時には、洋服の背中に絵の具をつけて帰ってくるようになった。親はその都度、本人に確認していたが、本人は親にも何も言わなかった。事実を説明することが苦手だったこともあり、それがいじめなのかどうか、本人自身も理解していなかったのかもしれない。物が紛失する件については、本人の不注意かもしれず、公にはしてこなかったらしいが、さすがに背中に絵の具は、自身では有り得ないと思った親が学校に相談した。そこで始めてクラス全体の問題として取り上げられることになった。 学校の先生方とクラス全員にアンケートが実施された。先生方はほぼ全員が、クラスに至っては、約半数の子供たちがその子に対するいじめを目撃をしたり、いじめられていることを知っていたりするという結果だった。その話を聞いた時、ぼくは言葉が出て来なかった。こんな身近な所にいじめがあったことへの驚きと、知っていたのに何もしなかった先生方やクラスメイトの見て見ぬふりをしていたことへのショック。その対象になっていたのが仲良しの友達だったから余計に驚いたのだ。そして、それにも増して驚いたのは、いじめの加害者や見て見ぬふりをした子たちの親にもその事実が個別に知らされたのにも関わらず、その子たちからもその親からも、何一つ誰一人として謝罪がされなかったことだ。 いじめた子は、もちろん悪い。でも、見て見ぬふりをしていたのだっていじめている人と同じ位悪いとぼくは思う。今回は先生方も知っていたというから驚きだ。もしも、自分がいじめられていたら、誰にも言えないので何事もなかったかのように振る舞うと思う。エスカレートしていけば、いずれ学校にも行きたくなくなり、笑って暮らせなくなるかもしれない。最悪、自分の生きている意味がわからなくなってしまうかもしれない。 先日、夏休み明けの自殺者が増えるというニュースを見た。子供にとっての社会は、家庭や学校、習い事くらいしかない。その内でほとんどの時間を過ごす学校がいじめによって楽しくない場所だったらと思うと、生きていることが辛くなってしまってもおかしくないと思う。今は多様性の時代という言葉を良く聞くようになった。人は皆、それぞれ違って良いと思う。障害だって、ぼくは個性だと思っている。皆がそう思えたなら社会は明るくなっていくのではないだろうか。その友達に会ったら言ってあげたい。 「ずっと友達だよ。」って。 「ぼくは味方だよ。」って。 「ずっと友達だからね。」って。
償うための、支え合う力
おゆみ野南小学校 六年 黒須 心晟
僕は朝によくニュースを見る。取り上げられている話題の中で、犯罪や非行はほぼ毎日のように目にする。犯罪や非行で捕まったほとんどの人がうつむいた状態で歩いているところがテレビに映っている。僕はこの人たちがうつむいた状態で歩いているのは、恥ずかしいからだと思っていた。自分が犯罪や非行を犯したことを、色々な人がニュースで見ていることが恥ずかしいのだと。それと同時に、その姿を見た人たちからの信用が失われる。そうなったらもう、社会から見捨てられる。僕は心のどこかでそう思っていた。 僕はあまり刑事ドラマを見ないが、この前、偶然テレビで見たことがある。そのドラマで見たのは、犯罪を犯してしまった息子と、その母親が面会をしているシーンだった。面会が始まる前は、「なぜ面会をするんだろう。」と思った。「犯罪を犯した息子と面会したって何も変わらないし、お互いに話すのは辛いはずだから、面会するべきじゃない。」と感じたからだ。そう思いながら見てみると、息子は何も言葉が出ない様子だった。そりゃそうだ。だって、自分は悪いことをしたのだから。母親もきっとこんなことを思っているんだろうと思ったけど、そうじゃなかった。むしろ、「大丈夫?」とか「辛かったね。」と、今にも言いたそうな顔で息子を見つめていた。その後も面会のシーンは続いていった。そのシーンが終わる頃には、息子への印象がドラマを見る前と全く違った。ドラマを見る前は、その息子はただの犯罪者だとしか思っていなかった。でも、面会のシーンを見て、犯罪者ではなく、あの母親の大事な息子に思えた。犯罪を犯したことに変わりはないけど、その人は誰かの大切な人で、その人のことをとても心配してくれて、応援してくれる人がいる。そういう人たちがいることで、「罪を償ってまたやり直そう。」という人が一人でも多くなるんだと思った。また、その人の背中を押してくれるような存在が、どれだけ大切なのかを、気付かされた。 そのドラマの最後は犯罪を犯した息子が罪を認めたところで終わった。きっとその後息子は、釈放されたら真っ当に生きると思うし、その人の母親のためにも真っ当に生きてほしい。こんなシーンは、刑事ドラマにかかわらず、色んなジャンルのドラマやアニメで見ると思う。もう何十回も見ていたとしても、それぐらい大切なことだということを知ってほしい。一度間違えてしまっても、またやり直せばいい。その後にどう生きるかのほうが、重要だ。そのためには、刑事ドラマの母親のように、背中を押してくれたり、応援してくれたりする人が必要だと僕は思う。それと、もう一つ感じたことがある。またやり直そうと頑張る姿は、周りの人にも勇気を与えてくれる。間違えても、背中を押してくれる存在がいるから、頑張れる。その姿を見て、周りも頑張れる。こうやって、お互いがお互いを支え合うことで、互いに勇気をもらえるのだ。だから、一人ひとりの頑張りが、社会を明るくするきっかけになると思う。